戦後初の納税表彰

 山口県余田村(現在の柳井市)は、昭和25年度に大蔵大臣と国税庁長官から同時に納税表彰された村です。それを記念して村民に配布されたと思われる記念の「杯」が、写真1と写真2です。余田村は、大正3年から37年間、国税と地方税を併せて完納し続けてきた村で、それが評価されての受彰でした。杯の内側には「租税完納塔、昭和二十五年建設」、外側には「三十七年間租税表彰記念 余田村」の文字が記されています。写真3が村内に建設された納税完納塔です。
 余田村は、瀬戸内海に臨む戸数436戸・人口2,177人の米作中心の農村で、この受彰を報じた当時の大蔵省機関紙によれば、当時の村長は「大正2年だけ完納が途絶えたが、これがなければ明治22年から62年間完納だった」と述べています。柳井税務署長は「余田村の税額は他と比べて低いわけではなく、むしろ普通か、それ以上」と述べているので、完納の継続は簡単ではなかったようです。
 機関紙では、村長は「純朴な伝統」と述べていますが、「村役場には広島税務監督局長や山口県知事の租税完納表彰状が部屋一杯に掲げられていた」とされているとおり、大正期以降、村を挙げて完納に努めてきたことが分かります。これは、村長をはじめ村役場の吏員、それに村の農会長などが一致協力して産業振興に努め、年度初めに納期一覧を配布して、それぞれ納税資金計画を立てます。そして各税の納期前には注意書を送付するとともに、30戸に1人の割合で村内に納税駐在員を配置するなど、村を挙げた努力の賜物だったのです。
 申告納税制度導入初年度の税収は、昭和22年12月時点で予算額のわずか3割程度と財政破綻の状況を呈していました。この事態を、主税局長は「租税の危機」と表現しています。そこで衆議院と参議院の決議により全国的な租税完納運動がスタートしたことは、以前このコーナーでも「戦後の租税完納運動」として紹介しました。興味のある方はご覧ください。戦後の混乱の中でも余田村の完納は継続され、更に表彰の翌年にも完納の報告がなされています。
 余田村の納税表彰は、昭和15年に制定された納税表彰規程によって表彰されたものでした。翌年の昭和26年には新しい規程が制定され、新規程による昭和26年度の大臣表彰は、静岡県西浦村(沼津市)、鳥取県面影村(鳥取市)、広島県久友村(呉市)の3か村が表彰されています。
 この3か村の納税表彰については、国税庁広報課作成の「わたくしは天皇にお会いした」(写真4)というパンフレットが作成されおり、東京で表彰式が行われ、代表して3か村の各村長が大蔵大臣とともに昭和天皇の「御会釈」を賜っていることが分かります。前年の余田村のときはどうだったのか、詳しい史料がないのが残念です。

(研究調査員 牛米 努)