明治初期に行われた「地租改正」という言葉はよく知られている。地租改正は、明治政府が明治6年以降行った税制改革であり、農業生産者に米などを物納させる年貢(旧地租)に替えて、土地の所有者に税金(新地租)を課すものであった。このため、土地の持主を特定し所有権を認め、地券台帳を作成するとともに、持主には「地券」が交付された。地券に記された地価の3%が地租となり持主が金銭で納税するのである。今回は、当時の地券にまつわる「裏」の話を紹介してみたい。
 明治政府が印刷発行した全国共通の地券の表には、その地券が表象する一筆ごとの土地の所在や地目、面積、地価、所有者などが記載された。また、地券を土地所有者に交付する府県の印と大蔵省が府県に配付した「地券之証」印が押印され(写真1)、上部には地券台帳との割印があることが多い。譲渡や売買により所有者が変わる場合には、地券台帳を訂正して新たに地券が発行された。一方、地券の裏には、土地所有者は必ず地券を所有すること、帝国人民以外の土地所有禁止などの4項目が記され、地券及び土地所有についての説明書きが記されていた(写真2)。
 地租改正事業は、明治6年7月に制定された地租改正法によりスタートしたが、事業の開始当初の地券用紙は和紙の木版印刷で製造されていたため大量生産は困難であった。にもかかわらず、地租改正の期限が明治9年までとされたことから、地券用紙の供給は、地租改正事業の進捗を左右することになったのである。
 そうした中、明治9年4月に地券用紙の製造担当であった大蔵省紙幣寮刷版局が、東京府王子村に新たな工場(現在の国立印刷局王子工場)を開業させ、輸入した印刷機器と外国人技師を使い洋紙による地券用紙の製造(洋紙の製紙及び印刷)を開始した。しかし、創業したばかりの王子工場の製造能力では、地券を交付する府県からのすべての請求に応ずることは困難であった。明治9年度の地券用紙の製造枚数は3,500万枚余に上ったが、これは、請求数の38%に過ぎず、大蔵省は、急場をしのぐために一定期間、民間の製紙会社に地券用紙の製紙を委託するとともに、府県が用意した和紙の地券も緊急的な特例として、山形・山梨・石川・福岡の四県に限定して認可をした。
 なお、地券は本邦初の洋紙を用いた凸版印刷物であったことから、この地券用紙の製造自体が日本における本格的な洋紙の製紙・印刷の魁(さきがけ)となり、我が国における洋紙印刷業育成の役割も担うこととなったのである。
 明治10年末からは印刷機械の改良等により製造枚数も倍増したため、明治11年度中に地券不足は解消されるはずであったが、明治11年4月、発送の荷造りを終えた地券用紙730万枚余が火災により焼失してしまった。原因は自然発火とされており、相当な損失を被った。このようなとき千葉県から、地券用紙は紙質が良質なので、土地の所有者が変わるごとに地券を再発行するのではなく、「裏」の余白に書換え欄を設けることで対応したいとの伺いが政府に提出された。この伺いは、再発行の手数と費用を省くだけでなく、地券用紙の不足解消の面からも効果的であったことから許可された。こうして、地券の「裏」には府県ごとに書換え欄が押印されるようになり(写真3)、明治11年12月以降製造の地券用紙の「裏」には、最初から書換え欄が印刷されるようになった(写真4)。
 地券制度は明治22年に廃止されるが、明治18年度までに1億5,000万枚以上の地券用紙が製造された。地券の「裏」の変化を紹介してきたが、地券用紙の大量製造にまつわる裏話そのものが、地租改正事業を支えた本当の「裏」の話なのかもしれない。

(研究調査員 牛米 努)