跡田氏
 指名をされるとこれもかえって困るのですけれども、経済の論理からすればできるだけ規制はない方がいいというのは、もう経済学者の平均的な答えですけれども、これは普通の財という場合にそういうことが言えるわけで、お酒の場合には、やはりいろいろ特徴があるというので難しい言葉が前回出てきましたけれども、やはりそういう点を考えるならば、やはり何らかの規制をせざるを得ないものだというふうに思います。これは、要するに経済学では、ほかに自分だけで消費をして自分だけで満足感を得られるだけで終わるものならば、そういう規制をしない方がいいわけですけれど、この場合には、本人も飲むことによって未成年の場合には体に悪いという影響もあるのでしょうけれども、それに伴って外部に何か影響を与えるという、犯罪というようなものにかかわったりする可能性があるので、そういう点では、やはり規制の対象として挙げてもいいだろうと思いますけれども。これを経済的規制なのか社会的規制なのかというときに、非常に難しい問題になると思います。社会的規制というのも、結果的には経済的規制と同じ影響を与えるはずです。ここまでが一応普通の学者の持論だと考えてください。ですから、何らかの規制が必要だということで。
 私の個人的な、これまで生きてきた中で、一時、岐阜県の高山という非常に遅れた地域といいますか、昭和40年代ですから、かなり今よりも遅れていますし、今でも少し遅れているのですが、ここでは高校進学率が、私の昭和44年ごろ、大体30%から40%ぐらいだったんです。そうすると、中学校を出るとほとんどの子たちが働いているという状況で、閉鎖的な5万人ぐらいの町ですから。そういう中で高校に行っていますと、もう周りの連中は半分以上がみんな一応社会に出て、一人前にもう、結局法律を破っているわけですけれど、お酒を飲んでいると。そうすると、町全体ないしは周辺の村までも、お祭りや何かがあると父親のかわりに行って飲んできちゃうということで、高校生もごく当然のように飲んでおりまして、私も以下同文でございまして、そういうような文化・風土の違う地域というのが日本全国の中にまだたくさんあると思いますので、1つのやり方ですべてを決めていくというのはやはり難しいと思いますので、もし法律をつくられるならばできるだけやわらかい形で、何らかの規制が必要であるという程度で、あとはむしろそれぞれの地域、これは県とか市とかという単位ではなくて、もっと小さな単位でそういうものを考えていく必要があるテーマなんだと思うんですね。これはたばこにしても、悪書というか、そういう類の本もいろいろあると思いますけれども、日本が失ってしまったコミュニティーというようなものをむしろ作り出すといいますか、そういうようなむしろ社会的規制の1つのものを提案された方が、実効性があって、それでやわらかい規制になるのではないかと思っております。ですから、ある程度の社会的規制というものが必要だと。
 ただし、僕は、都会においてははっきりと、例えばコンビニもそうですけれども、ほかのところでも、対面販売を義務付けるというぐらいまで指導してもいいのではないか、ないしは売り場を確実に売る人の近くに置きなさいとか、区画を置くだけでは余り意味がないと思うんですね。売る人がきちんと出て持ってきて、これという形で売れるようなぐらいまで規制をしても、ある地域によっては、特に東京とか大阪とかという大都会の中では、そのぐらいはっきりとした、販売業者に対して義務づけるということは、僕はあってもいいと思うんのですね。ただ、田舎に行ってまでそれをやれというと、そんな、「この坊主はあそこの道を曲がったところの坊主だから、まだ20歳になってないやつだ」というのは大体わかる地域もあるわけですから、ある程度、地域によって違った形で何らかの規制を考えられたらいいのではないかと思います。
 しかし、十把一絡げの議論は余りされない方がいいんじゃないかということと、何らかの規制は必要という、この2点を申し上げたかったんです。どうも長々とすみません。

奥村座長
 どうもありがとうございました。
 ほかの先生方はいかがでしょうか。

井岸氏
 社会的規制については、ほかの先生方とほとんど同じような意見かと思うのですが、たまたま経済的規制という話が出ていましたが、従来の免許制度で、それがここに書かれている需給調整規制的な役割を果たしていたのかどうかという問題が1つあるのですが、そこへ持ってきて、たまたまいろいろな意味で供給過剰になってしまったと。そこに規制緩和ということで免許緩和というのが追い打ちになってきたというふうに私は考えます。したがって、経済的規制緩和が供給過剰、それで本来ならばそれは価格を下げて、それで本当に飲ませていい人たちが所得の範囲内で飲んでいる分には構わないのですが、飲ませたくない階層にまでどんどんそれを売っていかなきゃならないというのような状況に今なっているのだろうと。したがって、私はやはり社会的規制はそういった意味でも必要だと思いますが、反面、やはり何らかの形で経済的規制、要するに需給調整というのは、完全に調整するというのは不可能であることは言うまでもないのですが、供給過剰であり過ぎる場合は一体どう考えたらいいのか、ということではないかなというふうに思います。
 したがって、アルコールの度数の低いもの、ビール、これがさらに安くなって、発泡酒みたいな新商品も出ていますけれども、こういったようなものが比較的安く手に入ると。例えばディスカウントストアで発泡酒を買えば、今107円ですよね、1缶。ですから、こういったような価格でもって、コンパなんかにしてみても、コンビニで1缶ずつ買っているんじゃなくて、ディスカウトストアへ行ってケースで買っているのだと思うんですよ。実際に、そうやって大勢で飲むということであれば。だから、そういうような状況まで考えて、先ほどくどかったのですが、コンビニだけじゃないんじゃないのかというのはそういう意味で、自販機だとか大型ディスカウントストアなども含めて考えなければいかんのじゃないかなと、そういうふうに考えております。

須磨氏
 補足ということだと思うのですけれども、子供たちでもう自主的に判断できる能力を身につけるのが一番だと思うんですね、規制によってというよりも。ただ、自主判断をどうやって身につけるかというところから始まって、お酒はほかの商品とは違うという意味合いの流通の方法をつくってもらいたいと私は思っておりまして、その場合に、どういう置き方をするかから始まって、どこにお店を設置するか、そういうものに、規制といっていいかどうかわからないのですが、地域の意識も含めた、誰でもどこでもやってもいいということではないのではないかと。それを規制と呼ぶかどうかというのはちょっとわからないのですが、ある種緩やかな、ほかの合意のもとに店づくりもできるというようなシステムを作った方がいいのではないかと。特殊なものであるという感覚は残してほしいと思っております。

奥村座長
 先ほどの井岸先生のお話は、まず供給過剰というご認識があって、それは需給調整をより自由にしてきたので、供給過剰になって価格が崩れてきているのか、それとも需給調整とか規制の問題ではなくてほかの理由で供給過剰になっているのか、その辺の識別はどうでしょうか。両方あるということでしょうか。

井岸氏
両方あるということではないかと思います。そういう国際化の影響を受けた問題だと思うんですよね。

奥村座長
 そうすると、公正な取引をしているかどうかというもう一つの論点が、この2という柱に入っているのですけれど、価格取引をより公正なものにしていけば、供給超過にはならないだろうということもお考えになられておりますか。

井岸氏
 完全に供給超過が防げるとは思いませんけれども、そちらにプラスする方向に働くとは思いますね。

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