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1.年貢の時代

 江戸幕府は、納人された年貢を御蔵に納めました。御蔵は全国の直轄地に置かれましたが、江戸・大阪・京都のものを合わせて三御蔵といいました。
 年貢の納人は、村にとってもっとも重要な仕事でした。年貢は、まず名主のもとに納められます。村では年貢米を俵に詰め、郷蔵に一時保管します。決められた期日になると、近距離の場合は人馬をつかって御蔵へ送ります。遠隔地の場合は海運を利用しますが、代官所に送られた年貢は、幕府が各地の港に御用運送船を廻送させ、御蔵に運びました。
 幕府の御蔵でとくに重要だったのが、江戸の浅草御蔵です。浅草御蔵は元和6年(1620)、隅田川の浅草橋付近に設けられました。敷地は約27,900坪で、54棟の蔵・270戸前が建ち並ぶ大規模なものでした。その後、日本橋など各地にあった米蔵は、江戸時代中ごろまでに浅草御蔵に移されました。弘化年間(1844〜48)には67棟・356戸前という規模にふくらんでいます。
 浅草御蔵には8つの堀割があり、ここは、北と南から舟運と海運を利用して、全国から年貢米を納める船でにぎわいました。文政年間(1818〜29)で約38万石、明治維新前には、約50万石もの米が保管されていました。
 また、浅草御蔵の前を蔵前といいます。旗本・後家人の封禄米を販売する札差という商人が多く集まり、江戸経済の中心地となっていたのです。

租税の三御蔵回送

 明治のはじめ、政府は江戸時代の年貢制度を継承しました。年貢は、主に東国が東京御蔵、西国が大阪御蔵、関西が京都御蔵に回送しました。

御城米の積み替え作業

※深山神社所蔵、東北歴史資料館撮影

 この絵馬は、阿武隈川の河口荒浜における御城米(年貢米)積み替えの様子です。上流から川舟で運んだ年貢米は、荒浜で海船に積み替えて江戸に回送しました。

皆済証文之事

皆済証文之事 寛保元年(1741)

 この年に、下熊井村(埼玉県鳩山町)が納めた年貢は、田方が「米17俵2斗7升7合」(1俵4斗入り)で、畑方と小物成が、合わせて「永5貫869文7分」でした。

午御年貢皆済目録

午御年貢皆済目録 安永4年(1775)

 この年に、蕪町村(群馬県桐生市)が納めた年貢は、「永21貫556文5分」と、すべて金納でした。
 検地帳で蕪町村の村高をみると、寛文年間(1661〜73)は85石あまりで、畑の多い村でした。
 江戸時代、本年頁は米で納めることが原則でした。しかし、蕪町村のように畑が多い地域では、米ではなく銭で納めました。