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大手町の首塚

問い

 昭和24年に国税庁が発足する前の租税の賦課徴収は、財務省の前身である大蔵省が行っていました。明治時代の大蔵省は千代田区大手町にありましたが、この敷地内には平安時代に関東で起きた大規模な反乱である承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱(931〜40)を起こした人物に関わる塚がありました。
 大正12(1923)年の関東大震災後、大蔵省再建工事の際にその塚は取り壊されますが、その後、大蔵大臣や工事部長が突然亡くなるなど続けて不幸があったため、塚の取り壊しの祟(たた)りが噂されるようになります。
 この祟りの原因とされた塚に祀られている人物は誰でしょうか?

答え

平将門(たいらのまさかど)

解説

 平将門は桓武(かんむ)天皇の血を引く者で、祖父高望王(たかもちおう)が9世紀末ころ、平姓を給わり上総介(かずさのすけ)として関東に下向して以来、関東に土着した一族の出身です。承平元(931)年、一族の内紛に端を発して、武蔵(むさし(東京都、埼玉県))や常陸(ひたち(茨城県))の国司(こくし(中央から派遣され国の支配に当たった地方官))と郡司(ぐんじ(地方行政区画「郡」の官人))、国司と地元の有力者との対立に介入します。天慶2(939)年、常陸の国府(役所)を焼き払うとともに国守(こくしゅ(国司の長官))を追い払い、みずから新皇(しんのう)と称します。このことをもって、国家への反乱とみなされ、結局、将門は天慶3(940)年2月に下野(栃木県)の豪族藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と甥の平貞盛(たいらのさだもり)らの軍に討たれます。藤原秀郷の事績を描いた『俵藤太絵巻(たわらとうだえまき)』には往来を行く将門の首の場面がありますが、このようなさらし首は将門が史上初めての例であったため、将門の首にまつわる伝説が各地に残っているものと言われています。大手町の首塚はその中でも有名なものといえるでしょう。
 明治4(1871)年の廃藩置県後、大蔵省は神田橋内の旧姫路藩酒井雅楽守(うたのかみ)邸跡に庁舎を置きますが、かねてよりここには将門の首塚がありました。明治7年、ここに内務省と合同の木造二階建ての新庁舎を建てますが、大正12(1923)年の関東大震災で焼失し、翌年、跡地に仮庁舎を建てる際に首塚が壊されました。
 その後、大正15(1926)年、第一次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣であった早速整爾(はやみせいじ)(1868〜1926)が突然亡くなり、管財局技師で工事部長だった矢橋賢吉(1869〜1927)が亡くなるなど続けて不幸があったため、仮庁舎建設に際する祟りが噂されるようになり、昭和2(1927)年に鎮魂碑を立てたといわれています。
 大蔵省に関わる祟りが事実か否かは確かめようもありませんが、昭和15(1940)年6月には、落雷による大蔵省庁舎焼失を含む大手町官庁街の火災が起こり、また、太平洋戦争後、米軍が塚を整地しようとした時にブルドーザー横転事故が起きて運転者が亡くなっています。
 (参考)首塚は東京国税局近くのビルの谷間(東京都千代田区大手町1丁目2番1号外)に今も存在しています。