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わが国最初の予算公表―地租改正裏話―

わが国最初の予算公表―地租改正裏話―

今回紹介する史料は、明治6(1873)年7月に飾磨県(兵庫県播磨地方)参事森岡昌純より管内に向けて、太政官達(たっし。省卿から他官庁、府県などに出される訓令)の内容を伝える布令です。

この史料では、太政大臣三条実美は、前大蔵大輔(現在の財務省次官に相当)の井上馨と同じく前大蔵省三等出仕(当時の大蔵省のNo.4)の渋沢栄一が提出した「建言書」に誤謬があったので、大蔵省事務総裁大隈重信に「歳計概算」についてより詳しく取り調べるよう命じたところ、大隈より取調書が提出されたので、その内容について公表すると宣言しています(史料1)。

大隈は、井上と渋沢の「建言書」について、大蔵省を辞するに臨んで提出されたもので、その論旨は「憂国の衷情」より出ているが、論が激しすぎる上、歳出入の算出も憶測の概算を出ていないという問題があると評しています(史料2)。

しかしながら、この「建言書」は新聞紙上でも公開されてしまったため、国の内外に「紛紜(ふんうん、ふんぬん。入り乱れる様子)の物議」が生じており、沈静化させるためにも政府の会計の「実況」を明らかにし、「建言書」に反駁するため「歳計概算」すなわち明治6年歳入出見込会計表を発表したのです。

それでは、この史料中に出てくる井上と渋沢の「建言書」とは、どのような背景で提出されたのでしょうか。

この当時、岩倉具視や大久保利通、木戸孝允ら明治政府の首脳の一部が長期外遊に出ていました(岩倉使節団)。残った政府首脳は、江藤新平司法卿を中心に、学校制度や司法制度の整備などの急激な近代化に着手しようとしました。そのため、全国での学校や裁判所などの施設の設置を大蔵省に要求していました。これに対し、井上馨や渋沢栄一などは、政府の財政悪化を理由に、これらの要求を阻止しようとし、両者は厳しく対立しました(大蔵卿の大久保利通は岩倉使節団の副使として外遊中)。

明治4年の廃藩置県により、明治政府は旧藩士の家禄や藩債を引き継いでおり、さらには明治6年1月の徴兵制により軍事費も増大するなどしていたため、当時の日本の財政は厳しい状況にありました。折りしも、井上らは全国の府県知事らを招集して4月から地方官会同(地方官会同とは、大蔵省の所管の議案に関して、地方官の意見を吸い上げようと設置された、府県知事らを議員とした議事機関です。議案を審議するだけでなく、議員が議案を提案することもありました)を開き、地租改正や華族・士族などの家禄処分などの審議に着手しており、地租による安定した税源の確保と家禄処分による歳出カットを目指していました。このように奮闘していた彼らにとって、「入ヲ量リテ出ヲ制スル」という彼らの立場は絶対に譲れないものであり、江藤らが求める早急な近代化のための出費は受け入れられなかったのです。

結局、この両者の対立は井上らの敗北に終わり、井上と渋沢は明治6年5月3日に辞表を提出しました。同月7日には連名で、歳入4,000万円に対して歳出が5,000万円で、1,000万円もの歳出超過であると、政府財政に関する「建言書」を政府に提出し、さらには新聞『日新真事誌』にも公表したのです。政府の財政破綻を指摘したこの意見書は先にも述べたように物議を醸したのです。この事件の結果、井上は政府の機密を暴露した罪で罰金刑に処されました。

井上らが去った政府は、財政に関する信用を取り戻そうと躍起になりました。そこで太政大臣三条実美は、大隈重信を大蔵省事務総裁に任命し、政府財政の精査を命じました。大隈は、歳入4,873万円に対し歳出4,659万円で、歳入超過214万円であるという明治6年予算歳入出見込会計表を公表し、新聞などに掲載するほか、府県を通じて公表しました。史料中でも、「管内無洩(かんないもれなく)相達する者也」と、森岡が飾磨県の人々に太政官達の内容を通知をしたことが分かります(史料3)。さらに、大隈は、地租改正事業が今後進めば、地租収入が安定し、さらに歳入が増大すると見通していました。この観点からも、地租改正事業が待ったなしであったことが伺えます。

なお、地租改正の法案の審議をしていた地方官会同は、井上らが辞任した後は、大隈重信(10月に大蔵卿に就任)、陸奥宗光三等出仕兼租税頭らが中心となって審議が行われましたが(5月12日に可決、7月27日に公布)、陸奥もまもなく下野してしまいます。この後、地租改正事業は松方正義租税頭が引き継ぎ、推進していきました。

財政政策をめぐる対立から井上馨と渋沢栄一が辞任したこの事件は、政府が毎年の予算を公表するわが国の予算公表制度のきっかけとなったものです。今回ご紹介した史料は、ただ明治6年予算を知らせるだけでなく、地租改正という税制の近代化と同時に財政政策をめぐっても激しい応酬があったことを物語っています。

(研究調査員 今村千文)