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【第16回 酒類販売業等に関する懇談会】 議事録(1)

日時: 平成16年5月19日 10:00〜12:00

場所: 国税庁第一会議室

出席者:

懇談会メンバー 奥村 洋彦 座長
  田中 利見 座長代理
  井岸 松根
  岡本 勝
  小宮 信夫
  田嶼 尚子
  寺沢 利雄
  本間千枝子
  御船美智子
  矢島 正見
説明者 国税庁 寺内酒税課長
  若尾酒税企画官
  初谷酒税課課長補佐
  小森酒税課課長補佐
  前田酒税課課長補佐
  亀井酒税課課長補佐
  土屋酒税課課長補佐
  本宮酒税課課長補佐
  濱田鑑定企画官

奥村座長
それでは、「第16回酒類販売業等に関する懇談会」を開催させていただきます。ちょうど1週間前に、15回目の懇談会を開催いたしましたので、1週間後ということで、御多忙のところ大変申し訳ございませんでしたが、御参加いただきましてありがとうございます。
 本日の主たるテーマは、望ましい酒類の販売方法の在り方ということでございまして、3名の先生方からお話していただき、御検討いただくということで進めてまいりたいと思います。
 最初、武蔵野大学の現代社会学部助教授でいらっしゃいます林先生から、酒類の注意表示について考慮することにつきお話を賜ります。
 林先生、15分程度でお話しいただきまして、その後15分ぐらい御一緒に御検討いただけるということでよろしゅうございますでしょうか。ではよろしくお願いいたします。

林先生
それでは、「酒類の注意表示について考慮すること」ということで始めさせていただきます。
 まず、一般的な問題から考える必要があります。一般的にどういう情報が求められ、どのような情報が求められないのか。つまり、我々は情報を与えたつもりでも、受けとめる側が求めていない情報は単純に無視されるという事情があります。単純に無視されるというのは、たばこ類でも同様ですし、健康に関する注意でも全く同様なことが発生します。例えば、ある行動を行っている時に、「そんなことをやっていたらあなたが困りますよ」と言われても、その困り事は当人にとっては全く困り事ではないという場合も考えられます。健康に悪いということを余り切実に感じていない人々が、「あなたが困りますよ」、「あなたの健康に悪いですよ」と言われても、「ああそうですか」、「そのうちそうなるかもしれないな」ぐらいのことで終わってしまう。
 これが極めて典型的に表れるのが、レジュメの1番目に挙げた「うわさやデマ」のケースです。うわさやデマがなぜ発生するのかというメカニズムについては、昔から研究されておりますが、古い研究からずっと一貫して研究されていることがあります。それは、うわさやデマの場合、現実に与えられる情報と自分が求めている情報、つまり受け手が求めている情報が大きく乖離しているということです。求めている情報が分かっている、ある種の情報を求めているということと、それが与えられるかどうか、実際に分かることなのかどうかということとは別の問題です。ある種の情報を求めているけれども、その情報が与えられていないという状態のときに、うわさが次々と出てくるということになります。
 災害時の情報は、以上のことを極めて典型的に表しています。どんな情報が求められているのであろうかというと、一般的には、まず個別的な情報、つまり、「私にとってどうなのか」という情報です。
 約10年前の阪神・淡路大震災のとき、「何月何日、3日後のお昼ごろ、マグニチュード8の地震が神戸市の中央区近辺で起こる」というような、これは実際に出たうわさではありませんけれども、この水準の情報がうわさ・デマとして流れたわけです。マグニチュード8というのは、恐らく震度とマグニチュードを混同して言っているのだろうと思いますけれど、非常に具体的な情報です。そして、何時何分ということについてまでよく分かっている。地震の予報、震災予報、災害予報ということを言ったときに求められるものは、恐らくこんなレベルの予報であろうと思います。もちろん、こんな水準での地震予知は不可能です。「何時何分にあります」という予測は、まず無理です。ところが、震災予知としては、こんなレベルの、非常に細かい、具体的な情報が求められます。しかし、こういった情報を与えることは不可能なので、それに似通った情報、つまりうわさ・デマが流れてきてしまう。「実は昼ごろ地震があるらしいよ」という程度の話に、次々と尾ひれがついてくる。人々は、具体的な情報を求めているので、求めている方向に尾ひれをつけるんですね。ですから、どんどん具体化が進んでしまって、あらぬ情報が登場するといった状態になります。
 「一般的に困りますよ」という話では、人はなかなか動きません。ということで、レジュメの1の1番目に挙げた「個別的情報」が求められます。「あなたが対象」と思われることが必要である。包括的な注意事項は無視されるといえます。昔から、「不足を憂えず等しからざるを憂う」という表現がありますけれども、これは、人間は、全員の状態が何となく悪い方向に向かっていくということに対し、それほど痛みを感じないということです。
 「お酒を飲んでいれば、みんな、将来的にアルコール障害で困ることになりますよ」というのでは駄目なんです。「あなたの場合、お酒を飲んでいてはまずいんです」ということが言えればよろしい。ところが、大量に飲酒をすることは、だれの体にも悪影響を与えるという話にならざるを得ませんから、「あなたの場合特に悪いのか」、「この人の場合特に悪くはないのか」といったことをどの程度言えるかということが後々問題になってきます。
 レジュメの1の2番目に挙げた「短期的情報」についてですが、「目前には問題ないが、あなたの健康に悪いですよ」と言っても、もともと健康のありがたみを感じない人は、そのようなことを大して気に留めません。例えば、一度入院し、医者から「あなたの健康にこれはやめた方がいいですよ」と言われたような場合、あるいは肥満体の人が入院して、「あなたは肥満を治しなさい」と医者に注意されたような場合、それまで馬耳東風だったのに、突然健康に気を使うようになってしまうという事例が幾らでもあります。こういう短期的情報は効きます。ところが、「今困っていないかもしれないけど100年後に困りますよ」といったことは、大体、効いていません。ですから、短期的情報が求められてしまって、長期的にどうなるかという話をすることは難しい。
 そしてレジュメ1の3番目、関心の低い問題、関心の高い問題、についてです。断定的な情報、結論を断定的に与えるのはいいかどうかということにも絡むんですけれども、関心によって違いが生じます。大して関心のない問題だったらどうでもいいことですから、結論だけを断定的に述べると信じられやすくなります。
 ところが、高い関心を持っている問題だと、結論だけを断定的に示されても、こういう情報がありますよと言っている人、つまり情報提供者の言うことは、実は信用ならないんじゃないかということになり、信用が低下して情報が伝わらないということになってしまいます。関心の低い問題についてはと言いましたけれども、これは受け手の情報処理能力によっても変わります。これもアメリカの実験ですけれども、一般的には、教養程度の低い人ほど結論だけを断定的に押しつける言い方が有効であるということです。
 一方で、ある程度以上の知的水準にある人々は、「こうなっています」と結論だけを断定的に言ってしまうと、むしろ情報提供者の信用がなくなって、かえって信じられなくなる。つまり一方的に押しつけているというやり方は大変まずいということです。では、情報の受け手はどの程度の知的水準なんだということになりますけれど、日本の場合で言えば、大部分の国民が断定的な情報をぽんと信じるような状況にはありません。この理由として、その程度の初等教育は行き渡っている地域であるという言い方ができるでしょう。ですから、いきなり断定的に結論を言うというのは、まずい。つまり、ただ、「あなたの健康に悪いですよ」とだけ言っていると、「どこがどうまずいんだ」という反応、あるいはこの次にお話しする認知的不協和の解消という過程を通って、大して気にしなくてもいいだろうというような反応になってしまいます。これはこうした条件は、情報の受け手が大量の情報を受けているということに起因します。現代、ものすごい量の情報がありますから、その膨大な量の情報を一々吟味することができません。よって、自分に直接関わりのありそうな、今の自分に短期的に関わりのありそうなことだけを選んで聞くといった対応をしている結果であると考えられます。
 次に、レジュメの2に挙げた「情報の単純化と認知的不協和の解消」という問題です。複雑な情報を受けとめるのが難しいと、複雑な情報を何とか単純化して受け取ってやろうということになりがちです。これは、幼児に西部劇を見せると、カウボーイについて、「あれは良い方?悪い方?」と聞くといったことです。これは、幼児に特有な行動ではなくて、大人社会でも、何となく気に食わないことを、何となく気に食わない人がやっていると、同じ行動が大変悪意の行動に見えるといったようなことです。学生には、「はれたほれたで彼氏と付き合い始めたころは、彼氏のやることは何でもよく見えるけれども、別れ話をするころになると、箸の上げ下ろしに至るまで全てが下品に見えるというのは事実でしょう」と説明するんですけれども、多くの学生に思い当たることがあるようです。実際、別れ話をするころには、大体何をやっても気に食わないですから、威勢よく食事をするような習慣がある男性が相手だと、初めのうちは、「男らしくて格好いい」と言いますが、別れ話をするころになると、「飯の食い方からして下品だから、嫌い」だなんて言い出すわけです。
 これは、認知的不協和の理論といいまして、人々は非常に物事を単純化する傾向があるということを示しています。特に、受け手の先入観に合致する方向に修正して受け取る傾向がある。とすると、これは好き嫌いの評価が影響することになります。つまり、日々二日酔いで帰ってきて、「酒を飲んだら害がありますよ」という話を余り切実に感じていない人と、いややっぱり飲み過ぎてはいけないんじゃないかと思っている人だったら別々の評価を持つでしょう。しかし、これは特に若者の問題に出てくるんですけれども、普段から何となく教師の言うことは気に食わないと思っている学生が、教師から、「酒を飲んでいるとこんな悪いことがありますよ」と延々と説明されると、そもそも教師が気に食わないという先入観が先にありますから、言われたことを修正して、「いやそんなことを言ったって、うちのじいさんは毎日酒を飲みながら90になってもぼけても死んでもいない」とか、「知り合いのだれとかはまだ生きているではないか」というように、特定の事例で認知を修正することが起こります。「あの人たちは大酒を飲んでたけど、みんな長生きしているから構いやしないじゃないか」という考え方です。これは当然のことで、あくまでも確率論の話をしているわけであり、個々の人間について、酒を飲まなければもっと長生きしたかもしれないということは分かりません。大酒飲みだったら必ず寿命が短いと決まっていれば、だれも酒を飲まないでしょうけれど、大酒飲みだったら必ず寿命が短いというわけではなくて、大酒を飲むことにより平均余命が短くなる、こういう話をしているわけですから、例外は幾らでも出てきます。その結果、「大酒を飲んでも大丈夫なんですよ」と主張する資料に事欠かないことになってしまいます。ですから、情報の単純化が発生すると厄介だということになります。
 そしてここの話で、一般人が「よく分からない、未知である」と考えていることと、専門家が「未知である」と考えていることは非常に違う。先ほどの関心の有無によって変わる断定的な情報が、信じられやすいかどうかという問題にかかわってきます。専門家と一般人の間で「未知のもの」という捉え方は大幅に違っているということは、原子力発電所に対する態度の研究で分かったんですけれども、専門家は過去の研究履歴全体の中で分かっていることを分かっているとします。ところが、一般人は自分が直感的に分かっていることでないと分かっているとはしません。ですから、「君には難しいから分からないかもしれないけど、こういうことなんですよ」と説明したときに、情報の受け手にとってよく分からない場合は、よく分からない説明で煙に巻こうとしているんではないかというような認知が出てきて、かえってまずいことになります。この傾向によって、先ほどの断定的な情報を与えればそれで済むというものではないということになります。ですから、どんな害があるかということを情報の受け手が直感的に理解できないと、情報を提供することは大変難しいということになってしまいます。
 それで、レジュメの3枚に挙げましたように、「介入の鈍化」という問題もあります。これは酒類においても、「お酒は20歳になってから」、「未成年者の飲酒は禁じられています」だとか、「有害です」だとか、そういうメッセージを出しています。社会的に操作することを介入と呼んでいますけれども、社会的に操作しようと思って人間に情報を与えるとき、同じ情報を続けて何度も何度も与えていると、介入の鈍化が発生する。つまり、介入効果がどんどん減衰していきます。一般に人間の関心は、新聞記事の面積を社会的な大きな事件について計ることで求められますけれども、一般に指数関数的に減少するという研究結果があります。指数関数的にというのは、ちょうど元素崩壊と全く同じカーブを描くんです。始めのうちは急激に減衰していって、だんだん、だんだん緩やかなカーブで減衰していきますが、ゼロにはならないんです。ですから、阪神淡路大震災の記事は、今でも、年に一遍ぐらいぽろっと出るんです。その程度の効果があります。つまり、始めのうち、当日、翌日等は全国紙の紙面、ほぼ全部を占めていますが、次々に減っていきます。これは急激なものであり、介入効果がどの時点からか減少してきます。
 ですから、大きな効果が上がるのはどうしても初期段階なんです。ごみ袋を有料化した地方自治体は多いんですけれども、大体1年くらい経つと、もとの木阿弥です。ごみ袋は有料ですから、買うのが嫌で当初は減るんですけれども、大体1年ぐらい経つと元の状態に戻ってしまって、もとの木阿弥になってしまうんですね。こういうことから、酒類の注意表示についても、多分、同じようなことが起こる。後で説明があるようですけれども、たばこの警告文をローテーションで次々に変えていきなさいという勧告が出たのは、恐らくこういった効果への対応のためです。結局、同じ注意表示を何度も何度も見ることになりますから、定期的に表示を見直していかないとどうしてもうまくいかない。
 そして最後に、ここで考えなければいけないことは、若者の飲酒にかかわる問題です。これに関し、若者は規則を守らないから規則を守るようによく言わなければいけないという考えがありますが、この観察は誤りです。彼らにとって規範というのは、人間の行動について、人間がその集団の中でこう行動しなければいけないと一般に信じられていることです。法律にすればその規範を守ってくれるだろうというわけにはまいりません。大体規則というと、表に書かれたものを指しているんですけれども、守られている規則と一致しているわけではありません。ですから、実際に守られていない規範が存在しておりまして、特に酒類に関する規範は典型的に守られていないわけでして、中学生は分かりませんが、恐らく高校生にとっては飲酒は決して珍しい現象ではなかろうと思います。一般に不良生徒の間で飲酒が多いというのは、学校生活に不適応であれば、学校で正しいと教わる規則は、自分たちを受け入れていない集団の規則らしいという認知が発生するからだと考えられます。
 一般的に人間が他人を認知するとき、大変親しい人と全く知らない人、そしてその中間に当たる顔は知っているけれども特に親しいとは思わない人の三通りに分かれますが、厄介なのはこの中間の人々なんです。非常によく知っている人だったら、その集団、そのグループの中でかなり外れたことをやっていても、親しい人のやることだからとりあえず大目に見ておこうということが通用します。また、全く知らない人だったら何をしていても関係ありませんから何も言いません。中間が問題なんですね。高校生にとって、同じクラスで大して親しくない生徒というのは、行動の一番大きな基準になってきます。「こういうことをやるとクラスの中で浮くんではないか」ということは、高校生の大変大きな心配事になっているようです。大学生だったら中間の人はアルバイト先にいるのかもしれませんが、大学生においても大して変わらないでしょう。この中間は「セケン」と呼ばれ、中間の存在によって大変強い影響を受けます。学校に不適応な高校生たちの間では、学校に不適応な生徒たちがその中間の存在にあたり、彼らを基準に判断されます。ですから、特別に親しくなくても、いわゆる悪いグループの基準に合わせることになって、そういったグループに何となく親しみを感じることになってしまいます。自分たちが受け入れられていると思っている、成績がより良好な高校生たちであれば大人社会にも親和的ですけれども、そうでない高校生たちから見れば、大人社会はどうしたって親和的ではありません。そうすると、「大人社会は他人だから関係ない。仲間うちの基準を守るべきだ」ということになります。つまり、彼らは規則を守っていないのではなく、仲間うちの規則を守っているんです。守っている規則の中身が大幅に違うだけです。ですから、一般的に規則を守りなさいということを言っても効果がなく、仲間うちの規則を守ってしまいます。それは漠然とした疎外感の問題になり、注意表示で何とかすれば何とかうまくいくのではないかというわけにはなかなかいかないのです。
 では、どんなメッセージが必要なのかということになりますけれども、まずどうしても考えなければならないのは、だれに対しても有効なメッセージは初めから存在しないということです。これはメッセージに個別性が求められる以上、いかんともしがたいことです。つまり対象者が特定され、あなたの問題ですという個別性は絶対に必要です。あなたの問題ですという個別性が必要だということは、あなたの健康に有害ですよというメッセージは、実際に健康のありがたみを感じる人々には有効なんです。ですから、二日酔いを毎日経験している人だったら有効かもしれません。これがさらにアルコール依存症になってしまえば、また別な効果が働くかもしれませんけれども、「健康のために」というメッセージは健康を意識する人々には有効です。逆に大きな病気をしたことがない人たちであれば、いずれは死ぬんだからいいやというような、やけっぱちみたいなことを言っています。つまり、関係ないといって認知的不協和を逓減しているということになります。
 そして最後に、レジュメの4枚目に書いてありますが、あなたの子供に有害ですよという注意は母親には有効だということについて説明いたします。本人が重要だと考えている外部の問題に対し効果があるという主旨のメッセージは有効です。ですから、あなたがお酒を飲んだら胎児に悪い影響がありますという表示は、胎児を産みたいと思っている母親にとって重要なものであり、胎児への影響に関する警告文は妊娠中の女性に対する効果が期待できるということになります。実際に、妊娠したら飲酒をぴたっとやめるという人は幾らでもいます。それから同様に、「あなたの子供に有害ですよ」という言い方をすれば、親が「少々なら飲ませてもいいか」と判断することを回避できます。ですから、「未成年者の飲酒は有害ですよ」という表示は、親が子供に「少々ならいいか」といって飲ませてしまうことを防ぐ効果があります。したがって、これは親向けの注意表示なんですね。ただ単に、「未成年者の飲酒は法律で禁じられています」という表示をやると、親サイドも「少々ならいいか、うちの中で少しぐらいなら関係ない」というような合理化を起こします。ですから、「子供には有害です」という表示は意味があります。ただこの方法ですと、小学生のうちは効果がありますけれども、高校生ぐらいになれば、当の子供がアルバイト等で金を得て、勝手に仲間うちで居酒屋に飲みに行きます。このことまでも抑止することは大変難しいです。居酒屋のオーナーに、「酒を出すな」といっても、年齢の確認方法がないということを盾にとられて、逃げられるのが落ちです。居酒屋のオーナー自身が、未成年者に酒を飲ませてはいけないとどの程度思っているかは大変疑問です。一般的には、最近、家族連れで居酒屋に行くような習慣ができつつあり、そうすると当の子供だって出入りしてはいけないと思わなくなります。大人の場所と子供の場所を区分するような方法でもあれば別ですけれども、現代の日本社会はそうなっていないという事実を認めなければならないだろうと思います。そういった社会の動きを変えていくことは、警告表示というような水準でできることではないだろうと思います。
 非常にがっかりさせるようなことを言っているのかもしれませんが、効果が期待できるのは、せいぜい小学生の親ぐらいの水準なんだろうと思います。しかし、その水準で効果が期待できることは何がしかあるのではないかということになります。その条件が、結局あなたの子供に有害ですよというような言い方であろうというのが全体のまとめとなります。
 以上です。

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