【答え】

3 商工業者の組合から営業税を徴収した

【解説】

田沼家は紀州藩の足軽でしたが、田沼意次の父・意行の頃に藩主徳川吉宗が第八代将軍に就任し、それに従って幕臣になりました。跡を継いだ意次は、徳川家重の小姓として仕え、延享2年(1745)に家重が第九代将軍に就任してからは、側近として昇進を重ねていきました。宝暦10年(1760)に第十代将軍となった徳川家治は、特に意次を重用し、明和4年(1767)に側用人、明和6年(1769)には老中に就任させました。以後、田沼は幕府常置の役職としては最高位である老中を務めつつ、将軍側近の側用人も兼ね、天明6年(1786)まで権勢をふるいました。

田沼時代の幕府税制で特徴的なものは、商品流通に携わる株仲間(商工業者の同業組合)に営業税を課したことでした。株仲間に仕入れや販売の独占権を与える代わりに、冥加金(みょうがきん)を徴収することにしたのです。幕府は収入を増やすために、新田開発や年貢率の引き上げをすることがありましたが、それにも自ずと限界がありました。そこで意次は、当時盛んになりつつあった商品流通に着目しました。単純に年貢率を上げて増税するのではなく、商品流通の発展といった経済の変化に対応した税の導入を考えたのです。

かつて意次は冥加金を通じて過度に商人に接近したとして、江戸時代の賄賂政治家というイメージで語られていました。しかし、冥加金を徴収した背景には、従前の年貢増税策が限界を見せ始めていた幕府財政の実状があったのです。

(研究調査員 栗原祐斗)