【答え】

2 東京都目黒区

【解説】

目黒区の権之助坂で洋品店を経営していた喜多村実氏は、昭和22年(1947年)に新しく法制化された申告納税制度を受けて、ありのままの経営実態を申告に反映させる「ガラス張り経営」の必要性を感じました。「ガラス張り経営」とは、経営の内容を正確に把握・記録し、その経営内容を誰の前にも公開するという前代未聞の方法であり、喜多村氏は帳簿を新聞紙上で公開することまでしたそうです。

当時の所得税は最高税率が85%(平成26年分は最高税率40%)であり、利益の大部分を税金として納める必要があったことから過少申告をする納税者も多かったようです。そういった納税者には税務署が更正処分を行いましたが、正確な帳簿もつけていない納税者は反論するための資料もない状況でした。

このような状況に対し喜多村氏は、実質所得による正しい課税を行うべきであるという考えから、「ガラス張り経営」を始めました。

喜多村氏は、この方法を実践するため、昭和23年(1948年)12月、目黒区内の東急東横線第一師範駅(現在の学芸大学駅)前に「東京金物チェーン第一師範売場」を開業しました。やがて、「ガラス張り経営」運動に賛同して参加する中小企業者も徐々に現れました。

昭和24年(1949年)4月にGHQ民間情報教育局世論社会調査課の松宮一也主査から、シャウプ使節団への情報提供ということで、ガラス張り経営の詳細な説明と、店舗の「経営実情報告書」の提出を求められました。

「(松宮主査から聞いたところによると)このガラス張り経営の資料を見てシャウプ博士は青色申告の構想を示唆された。シャウプ博士は『税務官庁を強化して徹底調査』すべきか、『業者の誠実な申告』を推進すべきかといった納税の根本方針について迷っていたが、最終的には民主的納税ということから青色申告の導入を決意した」と喜多村氏は後日に述べています。

実験店舗での成果(正確で誠実な申告納税と黒字経営の両立)や、喜多村氏の「ガラス張り経営」への熱意が「青色申告制度の導入」へと繋がったのでしょう。

なお、青色申告には「正規の簿記の原則に従って作成された帳簿」の備え付けが不可欠です。当初は「複式簿記」が条件でしたが、個人や中小企業者には記帳が行いやすい「簡易簿記」も認められるようになりました。

ガラス張り経営には正確な記帳が必要であり、喜多村氏はガラス張り経営運動の一環として簿記の普及(特に簡易簿記)にも尽力しました。

(研究調査員 渡辺穣)