写真にある二つの史料は、(史料右)「志田郡本地御物成極帳」(しだぐんほんちおものなりきめちょう)と(史料左)「志田郡永御借受物成極帳」(しだぐんえいおかりうけものなりきめちょう)と題されています。どちらも明治元(1868)年に代官鈴木広之進が作成したと記されています。表題にある「物成」という言葉は、年貢と同じ意味で、全国的に使われました。表題を直訳すると「年貢を決めた帳簿」ということになり、様々な差引きをして年貢量を計算した帳簿になっています。
 地名の志田郡は、陸奥国(宮城県)の北部にある郡で、江戸時代には郡全体が仙台藩(伊達氏、宮城県)に属していました。
 仙台藩は、家臣に所領を渡す地方知行制(じかたちぎょうせい)を採用していたので、藩領は、「御蔵入」(おくらいり)と呼ばれる藩の直轄地と家臣の知行地(給地)の二つに分かれていました。作成者の肩書きにある代官は、直轄地である御蔵入の年貢関係を管掌する現場責任者なので、両方とも御蔵入の年貢に関する簿書だったことになります。(史料右)の表題にある「本地」は、御蔵入の土地を指していると思われます。(史料左)の表題にある「永御借受」は、藩が御蔵入の一部を家臣に永年貸与していた土地のことです。家臣は、正式な知行地のほか、御蔵入から永続的な貸与を受けていたのです。
 御物成極帳とは、代官が管内の村々の年貢を計算した結果を記した簿書で、村ごとに集計されていました。そして、代官は、複数の御物成極帳の計算結果を一冊にまとめ、9月から10月頃までに、上司の郡奉行、出入司に提出しなければなりませんでした。
 代官が作成した御物成極帳自体は、村々に開示される文書ではなく、代官が上司の決裁を受け、担当部署で参照されるような内部文書でした。このように代官所で作成された公文書が現在まで残されていることは、とても珍しいことです。
 代官が提出した御物成極帳の決裁が下りると、村々の最終的な年貢量が確定しました。11月晦日が締日とされ、12月20日が納期で、最終的には翌年の正月20日が皆済期日になっていました。
 しかし、この二つの御物成極帳が作成された明治元年といえば、戊辰戦争が起きており、仙台藩は、奥羽列藩同盟に加わって前線で戦い、9月13日に降伏し、10月26日に藩主親子に謹慎が命じられ、12月7日には所領62万石が没収されて、その後、12月12日に28万石の大名として存続が認められることになりますが、志田郡支配は、仙台藩と土浦藩に分けられるというような激動の時代にありました。
 つまり、この二つの御物成極帳は、降伏前後の時期に作成されたものということになります。残念ながら、誰が志田郡の村々に納税令書を発給し、最終的に誰がその年貢を収納したのかは分かっていませんが、この二つの簿書により、戊辰戦争が激化する裏で、年貢に関する通常の事務が着々と進められていたことが分かります。
 なお、仙台藩は、明治元年の減封に際し、家臣の大量リストラを行い、帰農を命じました。租税史料室では、そのときに帰農した足軽の一人が、自分の所領と「永御借受」を調査した検地帳を、平成30年度特別展示「江戸時代の年貢とその担い手たち〜検地から納入まで〜」で公開しています。

(研究調査員 舟橋 明宏)