今回、ご紹介するのは、租税寮(現在の財務省主税局に相当)出張所の錦絵です。この建物は、文明開化を象徴する建物の一つとして、錦絵の題材とされました。
 租税寮は、廃藩置県後の明治4(1871)年7月に、それまでの租税司を改称して設置され、同年8月、全国の租税の賦課に関する事務を管掌することになります。租税寮は大蔵省の一部局なので、神田橋内の旧姫路藩邸に設置された大蔵本省の中にありましたが、大蔵省には出張所が各地に設置されており、ここで紹介する租税寮出張所も、その一つです。
 史料は、当時、数多く販売された租税寮出張所の錦絵で、「筋違万代橋租税寮之図」のタイトルが付けられています。万代橋とその際に建つ租税寮出張所をメインに、通りを行く人力車や馬車、邏卒(現在の警察官)や郵便配達夫などが描かれており、文明開化の東京を描いた錦絵の一つといってよいと思います。
 租税寮出張所は、明治6年の受取諸証文印紙貼用心得方規則(以下「印紙規則」と省略)の公布に際して、東京府内で印紙類を販売するために設置された出張所です。同年6月1日より受取諸証文に印紙を貼用することとされ、印紙は大蔵省が任命する売捌人が販売することとしていましたが、印紙を100円以上まとめて購入する場合には、租税寮出張所で直接販売されることになり、東京府のような大きな商家が軒を連ねている場所では、購入者は多数に上るため、販売所が別に設置されたのです。しかし、東京府下に適当な販売場所がなかったため、当初は、海運橋の袂にある国立第一銀行構内の建物を借用して、「租税寮証券印紙売下出張所」として仮に設置されました。
 ところが、租税寮出張所は、明治6年11月には第一国立銀行の出資者である三井組からの申し入れで移転の必要に迫られました。移転先は元筋違橋内の600坪の官有地で、ここに租税寮出張所が新築され、明治7年9月18日に移転したのです。
 この場所には、江戸時代には筋違橋が架かっていたのですが、明治6年に廃止され、場所を移動して万世橋が架橋されました。石造りの眼鏡橋で、万代(よろずよ)も耐えられる堅固な橋という意味が込められています。そのため租税寮出張所は、万代橋出張所や万世橋出張所とも称されたのです。
 ところで、印紙規則は、明治政府が沽券税とともに最初に施行した税法です。沽券税は、それまで様々な理由により無税とされていた土地に、沽券金額の1%を課税するものです。江戸や京都、大阪などの町人地は地子免除(土地課税免除)だったので、農民の負担を軽減するため課税されることになったのです。土地課税免除の商人に新たに課税し、更に諸取引に印紙税を課税することで、これまでの農民に重く商人に軽い税制の改革がスタートしたのです。

(研究調査員 牛米 努)