明治38(1905)年6月1日より、塩が専売制となりました。日露戦争での戦費調達のため、それまで自由販売だった塩は、生産・流通・販売などが大蔵省主税局の管理下に置かれたのです。また、塩専売と合わせて「塩税」も存在していたことはあまり知られていません。この塩専売を契機とした、塩と税務署との関わりを紹介してみます。

塩の専売が始まった明治38年6月1日の時点で、既に製造されて小売業者等が販売の目的で所有していた「持越塩」は、専売ではなく国税としての「塩税」の対象となりました。塩税は、塩100斤(60キログラム)に対して1円30銭の割合で「持越塩」に課税されました。塩の専売が塩100斤に対して1円48銭(塩の原価18銭)ですので、専売による国の収入と同額となるような税率が設定されていたということです。この塩税は国税ですので、徴収は専売官庁ではなく税務署が担当しました。史料1は、東京税務監督局(国税局の前身)が作成した「塩税に関する事務取扱方」です。検査・査定の方法などが詳しく書かれています。史料2は、塩税の領収書です。塩専売が施行された月末の30日に領収されていますが、塩税は「持越塩」への課税が終了した段階で役割を終えます。塩税は、塩が専売制になった時だけに存在した特異な税だということができます。明治38年度の塩税は納税者が35,658人、課税対象となった塩の量が約3,702万4,000斤で、税額が約48万1,300円でした。

塩税だけではなく、一部の税務署は塩専売にも関わりがありました。
 明治38年4月1日に、大蔵省主税局の監督下で塩専売を担当する地方機関の塩務局が22局と、167ヵ所の塩務局出張所が設立されましたが、塩務局16局は税務監督局が兼掌し、108ヵ所の塩務局出張所は税務署に設けられました(1ヵ所は夷港税関支署(現、新潟県佐渡市両津港)に併設)。塩専売のみを専任とする塩務局や塩務局出張所は、塩務局6局・塩務局出張所58ヵ所で塩の主要生産地(赤穂や伯方など)だけに新設されました。
 史料3から5は、塩専売に関わった税務署長の辞令です。福本鶴松は、明治37(1904)年5月に小樽税務署長に任ぜられました(史料3)。そして、明治38年4月1日の塩務局設置に際して札幌塩務局小樽出張所長をも命ぜられました(史料4)。札幌塩務局小樽出張所には、出張所長を兼務する福本鶴松税務署長と2人の専任者のほか、6人もの小樽税務署員が兼任を命ぜられていました。実質的に税務署員が塩の専売事務を行なっていたのです。
 当時の北海道での塩製造場は3ヵ所程度に過ぎず、小樽税務署(札幌塩務局小樽出張所)管内に塩製造場はありませんでした。北海道で主として行っていた塩の専売事務は、漁業者への「特別定価売渡」でした。鮭・鱒・鱈・鯨・膃肭獣(オットセイ)の5種に対して、魚類塩蔵用の塩が「特別定価売渡」として低い値段で販売されていたのです。これは漁業保護が目的で、鮭・鱒は外国産に対する競争のため、鱈・鯨・膃肭獣は遠洋漁業奨励のためでした。この「特別定価売渡」は、塩100斤で18銭という定価(原価)での売渡を行なっていました。「特別定価売渡」には、漁業者からの申請と、実際に魚類塩蔵として使用されたかを確認する漁獲物検査が必要となりますが、北海道の税務署(塩務局出張所)は、このような専売事務を主として行っていました。
 塩の他にも、葉煙草が明治29(1896)年より専売制となり、明治37(1904)年には煙草の製造・販売も含めた専売へと拡がり、煙草専売局という大蔵省直属の中央機関が設置されていました。樟脳は明治36(1903)年より専売制となりましたが、塩と同様に大蔵省主税局が担当していました。明治40(1907)年10月1日に、専売局が大蔵省の外局として新設され、煙草や樟脳と合わせて塩の専売も担当することとなりました。同じ10月1日に専売地方機関も整理され、小樽では煙草と塩の販売を担当する専売局小樽販売所と、収納を担当する専売局函館収納所小樽出張所が新設されました。税務官庁の兼任ではなく、専任の専売局職員が事務を担当することとなったのです。福本鶴松税務署長も、前日の9月30日付で兼任を解く辞令が発令されています(史料5)。かくして2年半の期間にわたった、約100ヵ所の税務署と塩専売との関わりも終わりを告げました。

(研究調査員 渡辺 穣)