澤井 勝美
税務大学校
研究部教授


要約

1 研究の目的(問題の所在)

納税者自らが納税申告の過誤を是正する方法として、国税通則法は課税標準等又は税額等の過不足や納税申告が法令の規定に従っていないなど一定の要件の下に、修正申告又は更正の請求によることを規定しており、錯誤による納税申告の無効等の規定はない。
 所得税の計算においては、医師の社会保険診療報酬に係る所得計算や配当所得の所得計算若しくは申告選択のように複数の課税方法があり、その選択が納税者の自由な選択に任せているものがある。この選択を意思表示と捉えると錯誤を認める余地があるところ、税法は納税申告の過誤の是正は法定の方法によるべきことを原則とし、例外として錯誤の援用を認めるというのが最高裁判例であり、裁判事例では錯誤を認容し納税申告の過誤の是正が行われるのは限定的である。
 このように法定申告期限後の過誤の是正が制約的、限定的なものであるのに対し、法定申告期限内の過誤の是正については、所得税基本通達により事務に支障のない限り申告書の差替えや確定申告を要しない者から納付すべき金額の記載のある申告書について撤回を認めるなど法定申告期限後の手続きと比較すると手続上柔軟な取り扱いといえる。
 申告書の差替えや撤回は租税法に明示の規定が存しないところであり、所得税基本通達が錯誤を念頭にしつつ、それ以上に課税方法の変更も含めて納税申告の差替えや撤回を認めていると考えられるので、民法上の錯誤の概念、租税法への錯誤の援用の考え方等を確認、整理するともに、所得税基本通達の取り扱いについて法的な検討を試みることとしたい。

2 研究の概要

第1章では民法上の錯誤を確認し、税務手続きにおける錯誤の援用の考え方を確認した。民法上の錯誤は表示行為の錯誤と動機の錯誤に大別されている。表示行為の錯誤とは、意思表示の構造からみると内心的効果意思と表示行為の不一致があり、それを表意者が認識していない場合をいい、動機の錯誤とは内心的効果意思と表示行為との不一致はなく、動機の段階に錯誤がある場合をいう。動機の錯誤はその動機が表示されていれば表示行為の錯誤と同様に扱われる。
 錯誤により意思表示が無効とされ、ひいては法律行為が無効となるのは、その錯誤が要素の錯誤である必要があり、要素の錯誤とは「因果関係」と「重要性」の要件を備えたものと解されており、取引等の相手方を保護する側面がある。
 納税申告は私人の公法行為であり課税要件が充足されていることを届け出る「観念の通知」行為であるが、準法律行為として民法の意思表示に関する規定が類推適用される。また、納税申告の作成段階では複数の課税方法から納税者の任意の選択が行われており、この選択を意思表示と捉えることもできるから、納税申告には錯誤の援用の余地があると考えられる。
 第2章では納税申告の錯誤無効を主張した裁判事例から納税申告に対する錯誤の援用の要件を確認している。最高裁昭和39年10月22日第1小法廷判決は、納税申告の過誤の是正は法定の手続きである修正申告又は更正の請求によるべきことを原則とし、例外としてその錯誤が客観的に明白かつ重大であること及び法定の方法以外にその是正を許さないならば、納税者の利益を著しく害すると認められる特段の事情がある場合に錯誤の援用が認められることを示した。
 例外として錯誤の援用を認める要件の具体的判断基準については、最高裁が示していないことから、その後の裁判事例を整理していくと、「客観的に明白」とは申告の時点において職権で減額更正すべき事情が明らかであることであり、「重大」とは申告された金額と正しく計算された金額との齟齬が大きいこととする事例もあるが、齟齬が大きいという金額基準は主観的なものであるから不十分と考えられる。また、申告する金額等の意味内容を十分に理解している場合は「重大」の要件を満たさないとされる。
 「特段の事情」については、課税庁職員の誤った指導が強く行われて錯誤に陥った場合が具体的基準として示され、この基準により錯誤の援用が認められた事例が数例ある。
 第3章では、当初申告で選択した課税方法の錯誤無効により課税方法の変更の可否について、当初申告要件の緩和の概要及び課税方法の選択変更の裁判事例をみていく。
 平成23年国税通則法改正は1インセンティブ措置及び2利用するかしないかで、有利にも不利にもなる操作可能な措置のいずれにも該当しない措置について、当初申告要件を廃止し、更正の請求の対象が拡大されたが、当初申告要件が廃止されていないものは当初申告において選択した課税方法に拘束される。
 社会保険診療報酬に係る所得計算における当初申告の租税特別措置法による特例計算から実額計算への課税方法の変更をめぐる裁判事例を検討すると、更正の請求の事例では課税方法の選択を変更する結果、税負担が減少するようなことは更正の請求事由に当たらないとされ、修正申告の事例では、特例計算の計算方法に誤りを認め、課税標準等又は税額等が増加する修正申告の事由に該当する限り、課税方法の選択変更が認められると判断されている。修正申告の事例では、先の最高裁昭和39年10月22日判決は事例を異にすると仙台高裁判決では述べているが、最高裁判決では所得計算を誤った経緯を詳細に述べ、申告書に添付された書類からもその誤りは明らかとしているから、客観的に明白の要件に触れている。また、特段の事情が法的安定性と納税者の利益の保護性との比較考量と考えるならば、修正申告は当初申告の効果に影響を及ぼさないから特段の事情を考慮する必要がないとも考えられる。
 第4章では、法定申告期限内の納税申告の過誤の是正が所得税基本通達の規定により取り扱われていることを検討した。申告書の差替えは課税方法の選択変更を含むものであるが、事務処理の支障がある場合には申告書の差替えが許されていない。事務処理に支障がある場合とは、先に提出した納税申告に係る還付金の一部でも返納がある場合に、その返納が行われないと強制徴収手続き等がなく、事務処理上の問題となることから、これを回避するために申告書の差替えを許さず、法定申告期限内であっても修正申告の方法により是正が行われている。
 撤回については、私人の公法行為は行政行為がなされる前であれば撤回ができると解されているところ、裁判事例においては法定申告期限後の撤回は許されないと判示されている。しかしながら、所得税基本通達は申告を要しない者から納付すべき金額が記載されている納税申告書が提出されている場合はいつでも書面による申し出があれば撤回できるとしていることから、法定申告期限後の撤回は見直すべきである。

3 結論

社会保険診療報酬に係る更正の請求事例は、選択した課税方法を変更することで負担すべき税額が減少することは更正の請求事由に当たらないとしたものと考えることができるが、選択した特例計算の計算方法に誤りがあり、それにより錯誤に陥った場合までは判示していないように考えられ、錯誤の援用の余地を残すと考えられる。しかしながら、修正申告の事例では修正申告の要件に該当する限り課税方法の選択変更を認めるとしていることから、更正の請求では錯誤の援用を否定することも可能と考えられる。更正の請求期間の拡大によりこのような事例の増加も見込まれると思われることから、その後の事例の積み重ねが必要と考えられる。
 所得税基本通達による納税申告の過誤の是正は、申告書の差替えは期限内申告の一つとして訂正申告の制度を設けて手続き上の整備を図るべきであり、申告を要しない者から提出された納税申告書の撤回については、法定申告期限後の撤回は認めず、法定申告期限内であれば、納付すべき金額以外の記載のある申告書についても認めるべきであると考える。


目次

項目 ページ
はじめに89
第1章 錯誤91
第1節 民法の錯誤91
1 錯誤の意義91
2 錯誤の態様(区分)93
3 動機の錯誤をめぐる学説の対立94
第2節 租税手続における錯誤の援用97
1 納税申告の法的性格98
2 納税申告における錯誤の援用101
第2章 錯誤を主張した裁判事例103
第1節 錯誤援用の要件103
1 最高裁昭和39年10月22日第1小法廷判決
(民集18巻8号1762頁)
103
2 客観的に明白かつ重大の要件と特段の事情の要件106
第2節 錯誤援用の要件の判断基準108
1 「客観的に明白かつ重大」要件の判断基準108
2 「特段の事情」要件の判断基準120
3 小括129
第3章 当初申告要件の課税方法の選択変更と錯誤131
第1節 当初申告要件の緩和131
1 当初申告要件の緩和の概要131
2 宥恕規定との関係132
第2節 更正の請求で錯誤を認めなかった裁判事例134
1 最高裁昭和62年11月10日第3小法廷判決
(裁判集民152号155頁)
134
2 事例の検討136
3 錯誤の援用の要件から本件事例の検討139
第3節 修正申告で錯誤を認容した裁判事例141
1 最高裁平成2年6月5日第三小法廷判決
(民集44巻4号612頁)
141
2 事例の検討144
第4章 所得税基本通達による納税申告の過誤是正149
第1節 通達の性質149
第2節 通達による申告書の差替え等の存在意義151
1 期限内申告手続の規定151
2 申告書の過誤の是正に関する規定の検討151
3 所得税法の確定申告に関する手続規定153
第3節 通達の規定の検討154
1 通達による申告書の差替え154
2 通達による申告書の撤回160
結びに代えて167

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